コラム

はじめに

様々な人と、様々な事件の処理を通じて、様々な会話を交わしました。 そのなかで、法律とか正義とか裁判とかについてお話をさせて頂いたときに、漠然と誤解されている事柄があると気づきました。
そのときにお伝えしたことを、書いてみたいと思います。

裁判とか正義とかについて

大多数の法律に関係しない人々は、裁判所は何が正しくて、何が間違っているかを判断してくれるところだとお思いでしょうね。

また、人によっては、裁判によって「真実」*1 が明らかになると思っているのでしょうね。

ところが、裁判関係者(裁判官も弁護士も)はそのようなことを目的に仕事をしているわけではないのです。*2

*1: 「真実」というのは、本当の事実という意味でしょうが、裁判所はその意味での「真実」の追究が目的ではないのです。前にも述べましたとおり、当事者が主張した「言い分」が認められるだけの証拠があるかどうかが問題になるだけなのです。豊富な証拠を提出して、そのとき起こった「真実」が明らかになったと思われるケースもありえますが、そのときでも、その「真実」なるものが存在することによって当事者が主張する「言い分」(損害賠償せよとか、工事を差し止めよとか)が認められるかどうかを問題とするのです。

*2: 刑事裁判は、公権力の間違った行使から国民を守るという建前(現実はそうでないにせよ)があるので、また違った考えで運営されていますので、ここでは、民事裁判に限ってのことだと思ってください。

さて、裁判は、当事者間に発生した法的紛争*3が、「原告が被告に対してある特定のこと(ものを引き渡せとか金を払えとか)をせよ」と言う形で、裁判所の判断を求めたときに、法に定められた裁判手続きに従って整理、審理して(証拠調べをします)、当事者のどちらの言い分が認められるか(正しいか*4)を決めます。

*3: 裁判所はあらゆる紛争を扱いますが、その紛争が「法的」でないと扱いません。
何が「法的」で、なにが「非法的」かと申しますと、法的判断になじむかかどうかで決まります。キリストが預言者なのか、それともムハンマドがそうなのか、と言う紛争については扱いません。判断できないからです。つまり、裁判は法に従って判断するのですが、法に書いてなければ判断できないのです。
では、「法」とはなんでしょう。難しい議論をする人もいますが、ここでは、国家権力が「法」だと認めたものが「法」だと思ってください。
殆どが成文法といって、法律と言う形で定められています。慣習法や条理という書かれていない「法」もありますが、今は論じません。

*4: 「いずれの言い分が正しいか」という言い方をしましたが、裁判所が「正しい」「間違っている」を決めるのではないということが、素人の人にはわかっていないと思われます。
裁判所が決めることは、「法律に書いてあるところに従えば、Aの言い分は認められる」または「認められない」と言うことに過ぎないのです。
自分の言い分が認められたとき、「俺は正しかった、裁判所も俺を正しいといった」という風に主張する人もいますが、裁判所はそうはいってくれません、「正しい」か「間違っているか」かどうかを判断するところではないのです。「正しい」と言う言葉には、どこでも、誰に対してもその正しさを主張できるがごときニュアンスが含まれていますが、そういう普遍的「正しさ」は存在しないと思ったほうがよさそうです。

法的紛争のうち、当事者間の契約関係のもつれから紛争になるケースがあります。

裁判所は、当事者間の関係を規定する特別の法律があればそれを適用しますが、当事者間にどのような契約関係があるかを問題とします。これは、近代資本主義の根幹を成すドグマ「契約は守られるべし」*5という命題に従って判断するためです。契約は文書でなされたり、口頭でなされたりします。場合によっては、当事者間にいかなる会話が無くても契約の成立を認めます。例えば、お店で黙って売り物を指差し、黙ってお金を払ってその指差した品物を受け取ったら売買契約の成立とその履行を認めるのです(事実行為による契約と説明されます)。

*5: 不思議なことに、そのとおりの文言が書かれた法律がありません。守られなかったときに、当事者がいかなる権利・義務を持つかが書いてあるのです。

婚約者が心変わりして、結婚しなかったら、婚姻予約契約の不履行として損害賠償金の請求が可能です。婚約と言うのは契約なのですね。如何に愛していたかよりも、契約をしたかどうか(契約したと認定するに足りる行為──たとえば結納、婚約式、婚約披露パーティー──などがどれほどあったか)が問題になるわけです。

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