コラム

裁判とか正義とかについて

刑事事件について

私も若い頃は、国選弁護人として刑事事件を担当しました。しかし、そこで解ったことは、わが国の刑事事件では、法律で書かれているように物事は進行しないし、被告人の権利は著しく無視されているということです。刑事訴訟法はアメリカ法を参考にして制定されました。皆さんハリウッド映画を見て唖然とした経験はありませんか? 罪を犯したひとが逮捕された翌日に保釈金を積んで堂々と警察署から出てくるシーンを見たことがありますか?

日本の刑事訴訟法も、権利保釈といって、有罪を宣告されるまでは(無罪推定ですから)保釈される権利があるのです。しかし、現実には、身柄を拘束されたまま、起訴されても 無罪を争っていたり、自白をしなかったら、保釈されません。(あの堀江さんは何日拘束されていましたか、自白した村上さんは何日でしたか?)一日も早く釈放されたいがために、しなくてもいい自白をした被告人を何人も知っています。一種の自白強要装置として、保釈制度を運用しているのです。つまり、刑事訴訟法は、それが制定された精神とは全く別の思惑で運用されていることに気づいたのです。

この不当性を訴えて戦い続けている勇敢な弁護士が多数いますが、捜査当局も裁判所も運用実績のほうを尊重しています。また、弁護人の持つ武器と検察が持つ武器では不公平なほどの差が有ります。対等な戦いは不可能なのです。

さて、刑事裁判こそ、「悪い人を裁くところ」でしょうか?
まず、裁かれる人は「被告人」と呼ばれますが、建前上は「悪い人」ではありません。「推定無罪」があるからです。じつは、日本には、これを明言した法律はないのです。
仏の人権宣言*6や世界人権宣言*7のように明確に書いていません。

*6: その9条は「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に抑止されなければならない。」と定める。

*7: その14条2項 「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。」

関係者の間では、上記の意味での「推定無罪」がある、というのが、ドグマとしてあります。(単なる理念ではなく、世界人権宣言という国際条約を日本は批准しているので、この条文は、刑事訴訟法の上位法としての効力があるという人もいます。)

このドグマによれば、被告人は「有罪を宣告された人=悪い人」ではないのですが、 日本では、逮捕されたり、まして起訴されたりすると「有罪」に近いニュアンスで報道され、被告人は職を失い、その家族は引っ越しを余儀なくされたりしています。

次に、「人」を裁いているのでしょうか?

検察官は、有罪を立証できるに足りる証拠のある罪だけについて、被告人を起訴します。検討されるべきは、被告人が起訴された事件を犯したと認めるに足りる証拠です。この証拠がそろっていれば、被告人は有罪ですが、有罪と宣告されるのではなく、「被告人を懲役00年に処す」とか「500万円の罰金に処す」とか、刑罰が宣告されるのです。

裁いているのは、人ではなく、その人の「行為」(犯罪行為)なのです。しかも、その犯罪行為なるものが、認定できるだけの証拠があるかどうかが問題とされているのです。そして証拠不十分だと彼は「無罪」を宣告されます。極端に言えば、彼が犯罪を犯したことが「真実」であったにせよです。

高校時代のディスカッションの時間に、私は「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、弁護士になったら「罪も憎まず、人も憎まず」でいきたいと言ったそうです。それを聞き覚えていた同級生が何十年もたってから、非常に感心したといってくれました。そのときは、多分何も考えずに言ったのだと思いますが、今となってみれば、その原則でいいのではないかと思っています。(これを言うと、お前は犯罪被害者の立場に立ったことが無いからそんな気楽なことがいえるのだと叱られてしまいそうですが、息子を殺された母親が犯人を死刑にしてほしいと叫んでいる報道を見るにつけ、犯人への憎しみで生きることのむなしさを感じてしまいます。)

なぜ「罪も憎まず」かについては、話せば長くなるのでここでは割愛します。人間存在とその行為に関する世界観の問題だと言っておきましょう。

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